徒花は墓標

つかの間の優美をはかなく散らした花の木が、焼け付くような赤い夕日を受けて庭にひっそりと影を落としている。それはさながらもう手の届かないひとの面影のようで、庭の真ん中に独り佇む彼の心を寂寥感で満たした。
今日もいつもと変わらぬ一日だった。朝は馬に跨がり、王宮殿へ出仕する。執務室で机に向かい、粛々とやるべき仕事をこなす。定刻になれば、また馬に乗って屋敷へ帰ってくる。
屋敷では夫と父としての務めを果たした。屋敷の内主人である妻が運んできた膳を食しながら、留守の間の出来事を語る彼女の話に耳を傾ける。あるいは幼い息子が玩具の家鴨【あひる】を引きずりながらあちこち駆け回って下女を困らせているのを、やんわりと窘めたりする。
変わり映えのない日常が淡々と過ぎ去っていく。ぬるま湯に浸かるように平穏な日々。一昨日も、昨日も、今日も、そしておそらくは明日も、この生活にたいして変化はないだろう。
何一つ苦労はない。かといって、決して幸福なわけでもない。
「──父上?なにをなさっているのですか?」
突然聞こえてきた舌っ足らずな声に背後を振り返れば、縁側に立ち尽くす息子が異国渡りの玩具を手に彼を見つめていた。
「今日はいい子にしてたか?──母上たちの言うことを聞いたか?」
問いかけには答えずに、ジェシンは訊ね返す。何もかも見透かされそうな無垢な目に息が詰まりそうになり、さり気なく視線を逸らした。
父親の懊悩を知らぬ子供は目をくりくりさせながら喋り出す。
「はい!ずっとよい子にしていました。ク・ヨンハ様からもらったおもちゃで、ユン家のお坊ちゃんと遊びました。それから、きらいな野菜をがんばってたべました!」
そうか、偉かったな、と彼は言った。彼の父が待ち望んだムン家の若君は嬉しそうに頷き、ばたばたと足音を響かせながらまたせわしなく内房【アンバン】を駆け回る。世話係の下女があたふたとその後を追いかけた。
人の気配の消えた縁側を見つめるジェシンの顔から、ゆっくりと微笑が消えていく。
どんなものを目の当たりにしても、心動かされることはない。彼の目に映る世界は色を失ったまま。あのひとのいないこの世界に、美しく色づき、心に喜びをもたらすものは何一つ残ってはいなかった。笑うことすらも己に強いなければならない。
──キム・ユニの訃報が届いた時、それはジェシンの心の大部分をむしり取った。
所詮は徒花【あだばな】でしかない、実ることなどあり得なかった恋。一時は忘れようとさえした。けれど黄泉へ旅立った今、彼女は前よりもむしろいっそう彼を縛り付けていたのだった。
目を閉じれば、恋い焦がれたひとが無邪気に笑いかけてくる。もうこの世のどこを探しても、決して見いだすことのできない得難き笑顔──。
死にたいほど哀しくても、着々と時は流れる。
墓標を前に立ち止まっていても、世界は変わらぬ速度で動き続ける。
流転のいとなみの中で、人一人の絶望などは無に等しい。
だからそのいとなみに呑まれてこうして淡々と時を見送り、喪失感を抱えたまま年を重ねていくのはそう難しいことではないのかもしれなかった。
「キム・ユニ」
涙はとうに涸れた。彼女の墓前で一生分流したから。
「せめて最後の時には、──俺を迎えに来てくれるか?」
どんな形でもいい。もう一度逢いたい。無邪気に笑う顔が見たい。ずっと好きだったと、面と向かってそう伝えたい。
たとえそれが彼女を困らせることになったとしても、もう後悔はしたくない。誰よりもまず、自分に正直になりたい──。

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